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選挙 [Scene]

「ねぇ、選挙って行ったことある?」

 もう、ずいぶん昔のことだ。十五年近く経つのかもしれない。あの頃僕は、青果市場でアルバイトをしていた。市場の朝は早い。そして仕事終わりも早い。だから僕は、晴れた日の午後はほとんど、近所の大きな公園で唯一の趣味である絵を描いて過ごした。中学、高校と美術部に在籍していたが、美大の推薦は取れなかったし、進学する気もなかった。その程度の実力だ。ただ描くことは好きだった。描いている時だけは他のことを何も考えなくていい。
 夕暮れまで公園にいると、よく一人の女の子に会った。彼女は小さな犬を散歩させていた。ジーンズのよく似合う女の子だった。いつの間にか挨拶をするようになった。そしてそのうち軽い話をするようになった。
「かわいい犬ですね、男の子?名前はなんていうの?」
「すかんく」
「え?なんで……?すかんく?」
 なんでも彼女が好きなロック・バンドの曲名から付けた名前らしい。僕はそのバンドはおろか、音楽のことはほとんど知らなかった。
 それから晴れた日の夕暮れには、すかんくが僕のイーゼルの周りで遊ぶようになった。そんなある日彼女が言った。
「あなたの絵、私、けっこう好き」

 いつの間にか僕たちは付き合うようになっていた。そして、一年も経たないうちに、僕たちはペット可の賃貸マンションに引っ越しをした。二月の終わりの寒い日だった。
 二人と一匹の暮らしが始まって一カ月余りが過ぎた頃、夕食後、キッチンで洗い物をしていた彼女が言った。
「ねぇ、選挙って行ったことある?」
 一度もなかった。まったく関心がなかったから。「一回もない」と答えると、彼女は「ねぇ今度行ってみようよ」と言いながら水を止め、手を拭いて、小さなソファに座りテレビを眺めていた僕に「投票のご案内」と書かれた封書を持ってきた。
「行ってみようよ。今度の日曜」
「選挙かぁ……。でも、誰に投票したらいいかなんてさっぱり分からないよ」
 そんな僕に彼女は「勘でいいんじゃない?」と楽しそうに笑った。

 投票日は穏やかな春の日だった。投票所は小高い丘の上にある高校だった。僕たちはすかんくの散歩も兼ねて坂道を登った。校門のすぐ脇に大きな桜の木があって、すかんくはひらひらと舞い落ちる桜の花弁が気になるみたいで少しはしゃいだ。そんなすかんくを僕は抱きあげて門を通った。
そして、すかんくを入れた専用のお出掛けバッグを肩にかけ、僕は初めての投票をした。
 校舎を出て歩き始めた時、彼女は少し周りを気にしながら小さな声で言った。
「なんか、ちょっと、大人になった感じだよねぇ」
 僕は答えず、ただ少しだけ笑った。桜がとても綺麗だった。
 その日の午後、僕は色鉛筆で簡単な絵を描いた。桜の舞う坂道を二人と一匹が歩いている絵。彼女はすごく嬉しそうだった。

 あれからもうどれくらい過ぎたのだろう。僕たちの暮らしは二年ほどで終わった。理由は、今となってはもうよく分からない。いつの間にか始まって、いつの間にか終わった季節だった。
 彼女がここを出ていく時、「この絵、ちょうだい」とあの日の絵を持って行った。僕はその春、アルバイトを辞めて就職した。
 その後、彼女とは一度だけ会った。すかんくが亡くなった時。別れてから数年が経っていたが、電話をくれた。最後に会いに来てほしいと。火葬場で会った時、すっかり大人になった彼女の隣には男の人がいた。

 テーブルの上に「投票のご案内」と書かれた封書がある。僕はふとキッチンの方を見る。あれ以来、投票には出来る限り行くようにしている。政治のことも昔よりは分かるようになった。絵は、もう何年も描いていない。
 今度の日曜日、僕は一人でまた、あの坂道を登るだろう。彼女はどこかの町の投票所へ、もしかしたらかわいい子供の手をひいて行くのかもしれない。

「ねぇ、選挙って行ったことある?」

 ただ、想い出しただけだ。



っていうのは、今、急に思いついたフィクション。
あ、投票には行きますよ。
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